それから程なくしてぼくの前に現れたバンコランは、手に一本の雨傘を持ってはいたが、自分自身は髪も上着もしっとりと濡れていた。彼は、よほどの豪雨でもなければ、傘をささない。葉巻に火が付けられなくなるからなと彼は言うけれど、両手がふさがるのが嫌なのだろう。
目の良い彼は、公園入り口あたりから電話ボックスにぼくとパタリロが収まっているのを見つけていたらしい。まっすぐに歩いてきて、電話ボックスの前に立ち止まり、手にしていた傘を開いて差し出す。出て何を言おうかとぼくが少し迷っている隙に、パタリロが扉を開いた。
「やあやあ、ご苦労。お前にしては気が利いてるじゃないか」
と、鷹揚に手を上げながら彼の差し出す傘に入ろうとするパタリロを、バンコランはその長くしなやかな足で蹴り飛ばした。ボールよろしく綺麗に転がったパタリロは、そのまま車道へ飛び出し、運悪く通りかかった大型車にはねられ空高く飛んだ。轢いた運転手が気の毒だけど、きっとゴムボールをはねた位にしか思わないだろうし、パタリロはあの程度では死なない。
「大丈夫だ、死にはせん」
同じ事を考えていたんだろう。往生際悪く電話ボックスの中から、パタリロの行く先を目で追っていたぼくに、パンコランが言う。開いたままの扉のすぐ前に、傘が差し出される。雨はもう、霧雨に変わっているのに。自分が濡れる事は躊躇しないくせに、彼はぼくが濡れるのを嫌う。
「帰ろう。・・・悪かった」
いつもより深い、バンコランの声。
浮気騒動の後、彼がぼくに詫びる時の声は、いつもより少し沈んでいる。そう、全く気にしていない訳では、ないのだ。
迷うのはやめて、電話ボックスから出て彼の差し出す傘の中に入る。バンコランとの距離がぐっと近くなって、彼の体温や匂いが間近に感じられる。そして、それだけで嬉しがってしまう自分の浅はかさと恋心に、目が回る。だから、ぼくは進歩しないのだ。
「あなたも入って」
傘を持つ彼の左手に自分の手を重ねて、彼も入れるように高くする。とりあえず今は、ぼくの言うことに従うことにしたのか、珍しく反論もなく彼も傘の中に収まった。そう小さくもない傘だし、雨も弱くなっているので二人で入っても狭さや濡れは気にならない。
「・・・済まなかった。帰ろう」
「帰ろうって、どこに?」
繰り返して詫びるバンコラン。意地悪く問うぼく。
もう、自分の答えは出ているけれど、確かめたい。一人で、そう思い込んでいるのではないと。この恋は、今までとは違うのだと。
もしかして、いままでと同じなの?
今回もぼくの一人相撲なの?
にわかにまた不安が顔を出すけれど、表情には出さず、彼の瞳をじっと捉える。
「私たちの家に、決まっているだろう」
「家? 家って何?」
もっと言って。ぼくを安心させて。
「何?」
「家ってなんなの?」
言い募るぼくに、彼の目が少し細くなる。途端、面倒くさい奴だと思われたらどうしようと、怖くなる。
こんなこと言い出すんじゃなかった?
おとなしく、彼の後に従えば良かった?
でも、もう、確かめないと帰れない。
「バンコラン?」
不安になって声をかけたぼくを、彼の空いていた右手が抱き寄せた。
「家は、私たちの帰るところだ。私にとってそれは、お前がいてフィガロのいるところだ」
「本当?」
本当に、そう思う?
「当然だ」
潔い、きっぱりとした声。この世の真理でも語っているかのように、はっきりとした肯定に、自分でも呆れるほどにほっとする。浮気男の詭弁かもしれないのに。ぼくの、惚れた弱みでそう聞こえるだけかもしれないのに。明日にでもこの男は、また新しい浮気旅行の計画を立て始めるかもしれないのに。それなのに。お前のいる所が、自分の住まいだと言われただけで、こんなにも嬉しい。涙が、出るほどに。
「・・・マライヒ」
ぼろぼろと、ぼくの頬を転がり落ちる涙の粒を、革手袋をした手が拭う。せっかく彼が傘を持ってきてくれたのに、ぼくの顔にだけ、雨が降っているみたいに、涙は止めどなく降り注ぐ。彼はそのしずくを、手や唇で拭い続けてくれる。ああ、手袋の手入れをしなくては。涙はしみになっただろうか。いっそ、なればいい。この涙をバンコランが忘れないように。
「あの子」
「うん?」
濡れたぼくの頬に唇を滑らせたまま、彼が問い返す。
「綺麗な子だったね。ギャルソン。あの子、あの後どうしたの?
「・・・ふられた」
「え」
思わず、鼻先にあった肩を押し返して距離を取り、彼の顔をのぞき込んだ。そうされたくなかったのだろう、苦虫をかみつぶした様な顔のバンコラン。彼がここまで表情をあらわにするのも、珍しい。
「勝ち目のない勝負は、しない性質なんだそうだ」
半ばやけのように、彼が言う。
つまり、向こうも死にものぐるいじゃなかった、ということだ。遊びのつもりが、遊ばれていたという訳か。いや、存外頭の回る少年だったのか。
「美少年キラーかたなしだね」
「全くだ」
苦い顔が微笑に変わる。なんとも悔しいことに、天性の浮気人は、もう自信や矜持を取り戻したらしい。ぼくが彼を相も変わらず愛してやまないことが伝わってしまったのだろうか。
「ねえ」
傘を持つ手を離し、両腕をバンコランの首に絡める。キスをする直前の距離まで顔を近づけ囁く。
「お願い聞いてくれたら、とりあえず今日は許してあげる」
「何でも言え」
一応、悪いことをしたと反省しているのだろう。彼が気前よく請け負う。随分と調子の良いことだ。これは、きつめのお灸を据える必用がある。
「明日の休暇をやめにして、仕事へ行ってきて」
バンコランが、目を丸くする。きっと彼は、とった休暇をぼくに費やせと要求されることを予想していたのだろう。考えないでもなかったけれど、そうすればきっと、ぼくはその間中彼に甘えて過ごしたくなる。このままフィガロは大使館へ預けて、二、三日彼と二人きりでベッドで過ごし、その後はフィガロと彼と三人で少し遠出をして。そんなふうに、幸せに過ごしたくなる。けれどそれでは、彼への罰にならない。彼は本来、良き伴侶であり良き父の素質をもっているのだ。浮気癖を除いては。
「それから」
まだあるのか、とバンコランが身構える。
「パタリロが見せたあのルビーを買って」
「何?」
「半額にさせたから」
「そんな話をしていたのか」
と、彼の声がやや呆れた色を帯びる。
「え?」
「こんな狭いところでつぶれアンマンと何をしているのかと思えば」
彼が指し示したのは、ぼくの背後の電話ボックス。
「そこまで狭くもなかったよ」
ぼくも、パタリロもあなたみたいに大きくないから。
入ってみる?と、後ろ手に扉を開けて体を滑り込ませ、彼を電話ボックスに引き込んだ。驚いた拍子に落としたのだろう傘だけが、すっかり弱くなった霧雨の路上に残る。
「急になんだ」
「びっくりした?」
問いながら、彼を引き寄せる。見た目よりがっしりとした首に腕を絡め、しっとり湿った生地に包まれた長い足の間に膝を割り入れ、抱き寄せる。さすがに彼と二人だと、すこし窮屈に感じる。でも。
「こうやってくっついてれば平気でしょ?」
「ああ」
答えと一緒に、キスが降ってくる。
まだ濡れている、ぼくの目元に、頬に、くちびるに。もう、それだけで嬉しくて恋しくてたまらない。彼の耳元で、好きと囁きたくなってしまう。これじゃあ、ちっともお灸にならない。すぐに許したんじゃ、彼を懲らしめることなんて出来はしない。でも、キスはやめられない。抱きつく腕も、解けない。
深い、深いキスを繰り返して、それでも彼に愛を告げるのは何とか我慢して、くちびるを離した。
「マライヒ」
「うん」
彼は待っている。
ぼくが、彼に好きと囁くのを。
「マライヒ、愛している」
「うん」
ぼくも、あなたが好き。愛してる。でも、言わない。愛しているからこそ、今は言わない。
ぼくらはきっと、これからもずっとずっと、こんな馬鹿げた喧嘩や嫉妬や浮気や仲直りを繰り返していくのだろう。何度でも何度でも、愚かに。でも、その繰り返しの中で藻掻くことをやめたら、きっとぼくらに未来はない。いるかどうかもわからない、信じてもいない神様が呆れてしまうほど、見苦しく、じたばたと、飽きることなく、時には泣きわめきながら、愛を重ねていく。ぼくらは、そうすることでしか、生きていけないんだ、多分。
「帰ろう、家に」
目を見てそう告げると、バンコランは頷いて電話ボックスの扉を開いた。もう本当に僅かだが、霧雨は降り続いている。
「わあ」
彼の落とした傘を拾い上げて頭上にかざすと、弱い雨なのに驚く程の水滴が落ちてきた。思っていたよりも長い間、キスをしていたらしい。前に立っていたバンコランがいつの間にか戻ってきて、またぼくの頬を拭ってくれる。
「なんだ、また泣いたのか」
少しからかいの混じった口調に、
「誰のせい?」
と、返してやる。
まったく、懲りないものだ。彼も、ぼくも。
また、ぽたりとしずくがぼくの頬に落ちる。これでは、傘をさしている方が濡れてしまう。
「傘の中だけ大雨だな」
傘を差さない彼が言う。その黒髪は、霧雨を含んで闇のようになお黒い。髪と同じ黒い瞳の、ぼくを見下ろす視線の優しさが嬉しくて飛びつきたくなるのを我慢し、歩き出す。
「帰ろう」
「ああ」
隣を歩く彼の手に、指を絡める。濡れてしまうけれど、彼の持ってきてくれた傘だから、閉じない。
傘の中に降るのは、もう雨だけ。
また涙が降ることもあるだろうし、彼の愛や、ぼくの嫉妬や不安が降りつのることもあるだろうけれど。
今はもう、雨だけ。
<終>